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大井 成元(おおい なりもと、1960年3月20日 - )は、広島県大竹市出身の元日本サッカーリーグのサッカー選手、指導者。 == 来歴 == 5歳上の兄(一成)の影響で小学校5年でサッカーを始め、1975年に県立広島工業高校入学。兄の薦めもあり、当時広島で一番の強豪校で憧れだった県工サッカー部で、松田輝幸監督から指導を受けてサッカーが上達したいという思いから入学したという。しかし、練習の厳しさは想像を絶し、春に70名程いた新入部員が、夏には30名に減っていったほどで、大井もその厳しい練習に何とか付いて行く。2学年上の金田喜稔や1学年上の木村和司ら一流選手のプレーを手本にできたことで、徐々に上達していった。3年生時は、1977年、猿沢茂、沖野隆幸、中本邦治、沖宗、木村、室野ら強力メンバーが揃い、社会人や大学生を含んだ全広島大会で優勝し、県内では、日本サッカーリーグ(JSL)の東洋工業を除いて、敵なしの力を誇った。ミッドフィールダーとして、夏の高校総体ベスト4。冬の第56回全国高等学校サッカー選手権大会では、優勝候補同士の対戦と言われた初戦の対帝京高校戦で敗退した。雪の積もった駒沢競技場での悔しい試合となった。帝京高校は早稲田一男、宮内聡らを擁して優勝した(帝京は2度目の優勝)。 高校卒業後1978年、JSL1部の新日本製鐵サッカー部に入部。宮本輝紀監督の下、日本代表のFW横山正文、DF岸奥裕二、GK保田らがいた。1980年、OBで元日本代表の上久雄が監督となる。大井はこの年にレギュラーを獲得する。この年、八幡製鐵初代監督の寺西忠成が特別指導者としてチーム指導に参画。大井は寺西を師と仰ぐ(寺西は後に、東福岡高校の志波芳則監督から特別コーチとして招聘され、高校3冠、選手権連覇を成し遂げている)。1981年、JSL1部下位となり、入替戦で日産自動車(主力は高校の先輩で日本代表の金田、木村)に敗れ、JSL2部へ降格が決定。大井も岸奥裕二、横山正文ら日本代表選手と共にチームに残留した。1982年のJSL2部、東京・西が丘サッカー場での対東芝(コンサドーレ札幌の前身)戦で左足頚骨を骨折。1年間のリハビリ後、復帰した。 1989年引退し仕事に専念する意思を固めていたが、前監督や主力数名が退部することでチーム存続を憂う幹部から、突然の監督要請を受けるも頑なに固辞した。しかし最後はチームの為にと承諾し、選手兼任で監督を務めることになった。その後1989-1990年シーズンからプレイングマネージャーを務める。1991年にJSL2部最下位となり九州サッカーリーグへ降格、1992年、九州リーグ優勝。1991年-1995年は福岡県国体監督(選手兼任)を務め、1993年東四国大会はベスト4に導いた。1995年をもって監督を退任し、仕事に専念。1998年から地元北九州市若松区高須のジュニアサッカークラブの監督としてボランティアで指導を続け、現在に至る。 大井は今まで、素晴らしい選手や一流の指導者と出会えて接することができたことに、本当に感謝しているという。サッカーと長く付き合いたいと現在でも選手登録しており、サッカーをすることが何より楽しいという。また大井は、第1種カテゴリーとして、これまでJSL1部・2部、そして九州リーグ、福岡県リーグ、北九州市リーグ、現在の福岡県シニアリーグと多くの各種リーグを経験している極めて希少な者と言える。長年経験したサッカーを通じて、そして恩師から教わったこととして、「人の為にと、行う事が楽しいことで、実は一番幸せなこと」「仲間をそして相手(家族やそして会社でも)も人を心から尊重(リスペクト)することが大切なこと」だと言い切る。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大井成元 (サッカー)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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